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第2回憲法学特殊講義

3.政教分離とは何か
 国家と宗教がかかわることで問題とされるのが、憲法20条、89条の各規定の存在である。20条では国民の信教の自由を保障し、宗教団体が国から特権を受けてはならないこと、宗教団体が政治上の権力を行使してはならないことを定めると同時に、国やその機関が宗教的活動をしてはならないことを定めている。89条では、宗教組織・団体に対して公金を支出してはならないことを定めている。
 これらの規定を総称して一般に「政教分離規定」と言うが、政教分離なる言葉が憲法条文に明記されていない以上、その意味を解釈することが必要となる。
 ここでは、日本国憲法での「政教分離」の意味を解釈することに努めたい。

 政教の分離、つまり政治と宗教が分離しているということは、近代立憲国家においては常である。かつて、政治と宗教が一致していた時代には、教会が政治に圧力をかけたり教会そのものが政治権力を握って、例えば税を搾取したり、他の宗教を弾圧したりするようなことがあった。その反省から、政教の分離が近代憲法の大原則として取り入れられ、宗教の影響を受けることなく政治を執り行い、また国民の信教の自由を保障することになった。
 政教分離を述べた書、「Epistola de Tolerantia 寛容についての書簡」でJ・ロックは、政教分離について以下のような命題を示している。
 第一に、「国家」(世俗)と「教会」(宗教)とは、その起源においても、目的においても、本質においても、全く異なっているので明確に区別されなければならない、第二に、「政治」と「宗教」は互いに役割を尊重し、領域に介入したり干渉したりしてはならない、ということである。
 つまり彼の理論から導き出される「政教分離」とは、『「政治」と「宗教」の任務と役割を明確に分離し、相互の介入及び干渉を禁止する』ということである。
 この理論によれば、「諸々の宗教に対して広汎な宗教的寛容を認めながらも国教制度を採用する」イギリスのような国家も、「国教は禁止しつつ、特定の教会を公法人として公認し保護と監督を行う」ドイツやイタリア、そして戦前の我が国でも政教分離は実現されていることになるだが、そのような制度は現憲法下の我が国での政教分離の考え方では受け入れられないものである。
 さらに、アメリカも日本と同じように政教分離が厳格に行なわれている国だとされているが、大統領に就任するときの宣誓はキリスト教の聖書に手を置いて行われ、また政府が行なう戦没者の追悼もキリスト教式で行なわれる。
 これらも我が国での政教分離の考え方では受け入れられないものである。つまり、同じ「政教分離」でも、日本のそれと他国のそれの間にはズレがあるということである。
 とするならば、政教分離は、ロックが導き出した理論である『「政治」と「宗教」の任務と役割を明確に分離し、相互の介入及び干渉を禁止する』という一つの次元では説明できないのではないか。
 このようなズレに対し、政教分離には「広義」と「狭義」の次元の異なる二つの「政教分離」が存在すると考えることで解決を試みる方法がある。
それでは「広義の政教分離」、「狭義の政教分離」とは何か。
「広義の政教分離」とは「政治と宗教の相互介入を禁止したもの」である、とする。つまりロックが定立した『「政治」と「宗教」の任務と役割を明確に分離し、相互の介入及び干渉を禁止する』にかなり近いものである。そしてこの「広義の政教分離」は近代立憲国家において絶対的かつ普遍的なものである。
 一方、「狭義の政教分離」とは国家と宗教のかかわり方について制度的限界を定めたものである、とする。つまり、「広義の政教分離」を前提とした上で、「国教制」「公認教制」「政教分離制」に分類した場合の「政教分離制」ということである。ここで注意せねばならないのは、「狭義の政教分離」の場合、「国はどこまで宗教とかかわることができるか」「宗教団体はどこまで国とかかわることができるか」についての制度的限界であるから、その内容は国によって異なってしかるべきであるということである。
 このように、政教分離を「広義の政教分離」「狭義の政教分離」と分けることで、国教制をとっているイギリスや公認教制であるドイツが日本やアメリカと同じように政教分離国である(「広義の政教分離」によれば、政治と宗教が相互介入していなければ要件は満たされるのであるから、国教制国家も公認教制国家も政教分離国である)ことや、厳格な政教分離国であるアメリカでの公式行事にキリスト教が大きくかかわることが許されている(「狭義の政教分離」は宗教団体と国家のかかわりの「制度的」限界を定めたものであり、公式行事にキリスト教色を出すことが「アメリカでは」認められていることに問題は無い)ことについて合理的に説明づけることができた。
 それでは、これら「広義の政教分離」や「狭義の政教分離」は、日本国憲法においてどのように具体化されているのだろうか。
「広義の政教分離」は「政治と宗教の相互介入を禁止するもの」、政治から宗教への介入、宗教から政治への介入を禁止することを意味するものであるから、この考え方は日本国憲法20条1項の「信教の自由」「宗教団体による政治上の権力の行使の禁止」に見ることができる。
 一方、「狭義の政教分離」は国がどこまで宗教とかかわることができるか、宗教団体がどこまで政治にかかわることができるかを意味するものであるから、前者は20条1項の「宗教団体への特権付与の禁止」、同条3項の「国の宗教的活動の禁止」、89条の「国による宗教団体への財政援助の禁止」に見ることができる(後者については日本国憲法においては規定がない)。
 こうして見ると、我が国の憲法は、信教の自由を保障するために「広義の政教分離」制を前提として採用し、同時にその保障を確実にするために「狭義の政教分離」制を採用して国家と宗教のかかわりを制限しており、本件のように首相が靖国神社に参拝したときに喚起される「政教分離」は、「狭義の政教分離」であるということができる。

4.政教分離訴訟判例の動向
 それでは、過去、政教分離をめぐる訴訟にはどのようなものがあり、司法はいかなる判断を下してきたのであろうか。
 本章では、(1)政教分離規定の意味(2)殉職者の慰霊と神道(3)靖国神社と公的機関のかかわりについての代表的な判例を見ることにする。
(1)津地鎮祭訴訟
 三重県津市が市立体育館の建設にあたり地鎮祭を行い、公金を支出したことが憲法20条、89条に反するのではないかが争われた事件である。
 二審判決では、神式で行われた地鎮祭は単なる習俗的行事ではなく、宗教的行事であるとして、違憲判決を下した。
 これに対して最高裁大法廷は、以下のように判示した。
1)政教分離規定はいわゆる制度的保障であって、信教の自由そのものとは異なる。
2)憲法は国家と宗教の完全な分離を理想とするものだが、現実の国家制度としては、それぞれの国の社会的、文化的諸条件に照らして、国家と宗教とのある程度のかかわり合いは認めざるを得ない。よって憲法の政教分離は国家と宗教のかかわり合いを一切禁止するものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行事の「目的」および「効果」に鑑み、そのかかわり合いが相当とされる限度を超える場合に初めて禁止されることになる。
3)憲法20条3項による禁止される「宗教的活動」とは、その「行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為」に限られる。
4)その行為が宗教的であるか否かの判断は、「主宰者、式次第など外面的形式にとらわれず、行為の場所、一般人の宗教的評価、行為者の意図・目的及び宗教意識、一般人への影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って客観的になされねばならない」。
5)1~4を前提に考えると、本件起工式は、「目的」が土地の平安堅固、工事の無事安全を願うという世俗的なもので、「効果」も神道を援助、助長したり、他の宗教に圧迫、干渉を加えるものではないから、「宗教的行事」とは言えず、政教分離規定に反しない。
(2)殉職自衛官合祀拒否訴訟
 殉職自衛官の夫を自己の信仰に反して山口県護国神社に合祀されたキリスト教信者の未亡人が、合祀を推進し申請した自衛隊山口県地方連絡部と社団法人隊友会山口県支部連合会の行為は政教分離規定に反し、また亡夫を自己の意思に反して祭神として祀られることのない自由(宗教的人格権)を侵害するとして損害賠償を請求した事件である。
 一審判決は、合祀申請行為は国(地連)と隊友会の共同行為で、宗教的意義を有し、神社を助長・促進する「宗教的活動」であり、「親しい者の死について静謐の中で宗教上の思考を巡らせ、行為をなす利益」(宗教的人格権)を侵害する違法な行為と判示し、二審判決もこれを支持した。
 一方、最高裁は津地鎮祭訴訟と同様に「目的効果基準」を採用した。
 そして、合祀申請について国は事務的な協力を行ったにとどまり、行為も「宗教とのかかわり合いは間接的であり、その意図・目的も、合祀実現により自衛隊員の社会的地位の向上と士気の高揚を図ることにあった」から「宗教的意識も希薄」であること、「効果」という点では特定宗教を「援助、助長、促進し、又は他の宗教に圧迫、干渉を加えるような効果をもつものと一般人から評価され行為とは認めがたい」として、「宗教的活動」には当たらないとした。また、神社による合祀は未亡人の自由を妨害せず、その法的利益も侵害しないと判示した。
(3)愛媛玉串料訴訟
 愛媛県知事の靖国神社・県護国神社に対する玉串料等(22回にわたり計16万8000円)の支出を争った住民訴訟である。
 一審判決は、本件玉串料等の支出について、その「目的」という点では「支出者側の主観的意図としては、愛媛県出身の戦没者に対する慰霊とその遺族に対する慰藉を目的として行われたものと認められる」ものの、本件支出は「一宗教団体である靖国神社の祭神そのものに対して畏敬崇拝の念を評するという一面がどうしても含まれてこざるを得ない」から「本件玉串料等の支出の目的が宗教的意義をもつことを否定することはできない」とし、「効果」という点では、「玉串料等の支出は愛媛県と靖国神社との間に特別の結び付き」を生じさせ、一般人に対しても靖国神社は特別のものであるとの「印象」を生じさせる「おそれ」があり、同神社の祭神に対し畏敬の念を持つよう強制する「可能性」もあることから、「本件玉串料等の支出は、愛媛県と靖国神社との結び付きに関する象徴としての役割を果たしている、と見ることができる。したがって、本件玉串料等の支出は、経済的な側面から見ると、靖国神社の宗教活動を援助、助長、促進するものとまでいえなくても、精神的側面から見ると、右の象徴的な役割の結果として靖国神社の宗教的活動を援助、助長、促進する効果を有するものということができる。」として違憲と判断した。
 これに対して二審判決は、本件玉串料等の支出は「神道の深い宗教心に基づくものではなく」、その額も「社会的な儀礼の程度」の零細なもので、目的効果基準に照らし合憲であるとした。
 一審、二審で判断が分かれた本件訴訟は、最高裁による違憲判決で決着を見た。
 判決の内容は以下の通りである。
 日本国憲法の政教分離規定は、国家と宗教の完全な分離を理想とするものだが、現実にそれを実現することは不可能に近く、よって国家と宗教とのかかわり合いは全く許されないわけではなく、その行為の「目的」「効果」が我が国の社会的、文化的諸条件から見て相当とされる限度を超える場合のみ禁止されることになる。つまり憲法20条3項が禁止する「宗教的活動」とは、その「目的」が宗教的意義を持ち、その「効果」が宗教に対する援助、助長、促進、又は圧迫、干渉等になるような行為をいう。
 本件玉串料支出については、(1)靖国神社の例大祭は神社の挙行する祭祀中でも重要な意義を有するものであること、(2)玉串料は例大祭の儀式で神前に供えられるもので、宗教的意義を有すること、(3)玉串料の奉納は地鎮祭のように慣習化した社会的儀礼にすぎないとはいえないこと、(4)県が他の宗教団体の儀式に対して同様の支出をしたという事実はないこと、以上の四点から考えると、地方公共団体が特定の宗教団体に対してのみに特別のかかわり合いを持つことは、県が特定の宗教団体を特別に支援し、その宗教団体が特別であるとの印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こすことになる。また、国家と神道が密接に結びついて弊害が起きたことを反省して憲法に政教分離規定が盛り込まれたことを考えると、たとえ相当数の者が玉串料を支出しての慰霊を望んでいるとしても、憲法上許されることにはならない。
 以上のことから判断すると、本件玉串料奉納の「目的」が宗教的意義を持つことは免れず、「効果」は特定の宗教に対する援助、助長、促進となり、憲法の禁止する「宗教的活動」にあたる。

次回に続く


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